低レベル倫理

極めて低俗で低レベルの倫理について論考する

苦痛

苦痛というのは重大な問題である。というのは、動物権利論者が動物に苦痛を与えることを禁じるからである。苦痛を論じることは動物権利に反対していくこのブログにおいて意味を持つ。

しかし、このブログの流れに反して、ここでは人間の苦痛について論じることから始めたい。

労働は苦痛である

これはギリシアの哲学者たちにとっては、一般的な理解であったようだ。また、時代が下っても中世の貴族などでは一般的にそう思われていたようである。そして更に現代に近づいても、たとえば一昔前のSFなどではロボットによって人間が労働という苦痛から解放されるというような話があった。

その一方で、現代の(ネット)社会においては、就労できないことの苦しみを訴える者も多い。共産主義思想からなのか、それ以前からあるのか詳しくないが、労働は喜びであるという考え方もあるのだ。勤労の喜びともいう。もっともネット社会の論者は、勤労自体が喜びなのではなく、働くことによって得られる社会的地位が喜びであり、社会的に肯定されないことが苦しみであると分析する者もいる。

恋愛は苦痛である

恋愛が苦痛であることもまた古くから多くの哲学者や文学者が論じていることである。恋愛が労働と違うのは、恋愛が快楽であるという主張は、苦痛であるという主張よりも古いという点であろう。

現代のネット社会でも、多くの人たちが恋愛で苦しんでいる。これについても、恋愛そのものではなく社会的地位を求めているのだという主張がある。

結論はない

ひとりひとりの哲学者は、労働は苦痛か否か、恋愛は苦痛か否かということに結論を出そうとするが、本ブログではそういうことはしない。労働が苦痛である者もいれば、恋愛が苦痛である者もいる。本ブログが尊重するのは多様性である。労働が苦痛だと感じて労働を避けようとする者と、労働が喜びだと感じて労働をしようとする者が両方いる方がよい。

動物の苦痛と快楽

動物にとっても苦痛はある。本ブログでは、動物と人間は異なると主張することが多いが、動物が苦痛を感じることは否定しない。もちろん、原核生物などになるとややあやふやな面はあるだろう。そして動物にとっても快楽はある。これは主に栄養を摂取する方向に働く刺激である。

動物権利論者は、食べられる捕食される苦痛を主に取り上げるが、多くの生物にとって栄養補給は快楽である。動物は移動することが出来るが、動き回ると捕食される危険が高まる一方で栄養を摂取できる可能性も高まる。ある種の動物はあまり動かずに少ない栄養を摂取し、ある種の動物は動き回って餌を探す。しかしこの差は種の間に存在するだけではない。ひとつの種の個体間にも活動性の差が存在する。その差が種の進化のもとになる。「ひとつの種の中の個体ごとに、苦痛と快楽をどの比率で重視するかという違いが存在する」というのがここで私の主張することである。そういう個体差があるから自然選択によって種の進化が起こるのであり、個体差は進化にとって極めて重要な要素である。

また直接的な危害だけでなく、動物にとっては栄養を得られないことも苦痛である。人間だって空腹は苦痛である。飽食した現代人は忘れがちだが、動物にとっては空腹や飢餓は極めて重要な苦痛である。

どの苦痛を避け、どの快楽を諦めるのか、その判断は動物の場合は思考よりも遺伝子によって決められる割合が多いだろうが、それでも個々の動物によって差がある。その判断の差が、その動物の個々の快楽や苦痛を超えて、その個体の子孫が増えるかどうかを決定するのである。

進化論的な見方をするならば、子孫が増えるような苦痛と快楽の比率判断をした個体は、結果的に適応性の高い個体とみなされる。現代地球において、個体数の多い動物の種は、そのような苦痛と快楽の適応性の高い比率判断をしたとみなしてよいだろう。

 

地獄はなぜ存在するのか?

素朴に信じていた宗教の発達

なんとなく素直な心で根拠もなく信じていたのは次のようなことである。「死んだら人間はどうなるのか」という素朴な疑問がある。それは単なる好奇心から来る疑問ではなくて、「死んだらどうなってしまうのか」という不安でもあるだろう。

そういう不安に対して「死んだら天国に行くんだよ。天国はとてもよい所だから何も心配する必要はないんだよ」という回答をすることで「天国」や死後の世界という概念が生まれたのだと思っていたのである。宗教的救済というやつである。

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天国 ---いらすとや

しかしそうすると、地獄という概念はどうして生まれたのか? これは思うに、宗教というものが誕生するとその威力は凄まじい。我々の宗教を信じれば、死後に天国に行けるとしてその宗教を広める。しかし、死んだら誰もが天国に行くとなると、宗教的支配者が「殺すぞ」と脅して人々を隷属させようとしても、それに反抗する人たちが「死んでも天国に行ける、殺されることなど怖くない」と言い出すようになる。「逆らうと天国に行けないぞ」と宗教的支配者が言っても、天国に行けないだけなら特に悪いこともない。これは支配者にとって都合が悪い。そこで「逆らうものは地獄行きだ」と言い出す。これで地獄が出来たのではないかと思ったのである。

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地獄 --- いらすとや


ひねくれた宗教観

しかし、この逆も考えられる。まず、支配装置としての宗教が作られ、「逆らうやつは死後に地獄に落ちる」という脅しで人々を支配する。「悪いことをしたやつは死後に地獄に落ちる」という考えで人々の日常生活を束縛する。人々は地獄に落ちることにおびえながら生きていく。

この方法にも欠点があって、支配者が人々を戦争に連れ出そうとすると、多くの人は日常生活で罪を重ねているので、死(そして死後の地獄)を恐れて、戦争に行きたがらないのである。そこで、「(支配者の命令に従って)戦争で死んだものは天国に行ける」という概念を作って命令に従わせるのである。

このブログは宗教というより倫理であった

倫理についてはどうだろうか?(と問いかけて終わる)

小循環

食べることと殺すことは別であるとは前に書いた。

 

llethics.hatenablog.com

さらに、食べたらそれで終わりという訳ではない。つまり、食べたら糞が出るのである。ある程度以上、大きな動物は食べるものが植物であれ動物であれ、何かを食べたら糞をすることになっている。そして動物の糞は他の生物の食物になるのである。

つまり、人間以外の動物は自らの死体を他の生物の食料とする以外に、糞を他の生物の食料として提供しているのである。しかし、文明化され衛生管理の行き届いた社会に住む人間は、糞を他の生物の食料として提供するという動物として当然するべき義務を怠り、他の生物に食べられないように自らの糞を衛生処分してしまう。(なお、この過程で微生物にだけは食べさせる。しかし、本来であれば糞は節足動物などを含むより多くの生物を養う食料として利用されるものだ。)

下水道の整備された都市に住む菜食主義者は、菜食主義よりもその糞を他の生物に提供するように務めるべきではないか。他の動物はすべて糞を他の生物の食料として惜しみなく提供しているのである。生命を尊重するならば、菜食主義もいいが、野糞主義を実践してはいかがであろうか。

三角形をピラミッドと呼ぶことなかれ

三角形とピラミッドは違う形である。

ピラミッド

ピラミッド

ピラミッドは四角錐であり、三次元の形。それに対して三角形は二次元の形である。

さて、世の中には「食物連鎖ピラミッド」などということを言う輩がいるが、そこに図がついている場合、なぜか揃いも揃ってその図は三角形である。いったいどういうことだろうか? 食物連鎖ピラミッドなどということを言っている人たちは三角形と四角錐の違いも分からないということだろうか。

それはともかく、食物連鎖という時には、殺す殺されるの関係ではなく、食べる食べられるの関係を指していると考えられる。殺す殺されるの関係を指したいなら、殺戮連鎖のような言葉がふさわしいであろう。

 

llethics.hatenablog.com食べる食べられるの関係は、三角形で表せるほど単純なものではない。テレビの番組や、ネットの動画では、見栄えのする映像が好まれるため、ライオンがキリンと戦ったり、バッファローと戦ったりする動画が目につくが、餌をとるためにわざわざ強敵と戦うわけがない。通常の狩りでは楽に倒せる相手を狙うのである。

そうすると、大型の動物、例えば象などはライオンや虎に食べられることは滅多にない。もちろん、例外はある。自然界で食物というのは安定して取れるものではないから、飢えれば危険な狩りもするだろう。

では、象はどうやって死ぬのかというと、多くの場合は老衰や病死や事故死や餓死である。もちろんライオンだって同じように、老衰や病死や事故死や餓死で死ぬ。前回の記事で植物は食べられても死なないと書いたが、植物が死ぬのはやはり水不足や日照不足や病気や冬の寒さが主な原因であろう。

そして、「食物連鎖」などという三角形とピラミッドの区別もつかないような雑な関係ではなく、より普遍的な食べる関係は生物の死から始まる。(こういうことは中学校くらいで習ったような気がするが、なにしろ昔の記憶なので当てにはならない。)

大型の動物の死体は、やはり比較的大型の腐肉食の動物に食べられる。食べるために殺された動物の場合も、腐肉食の動物の参加する余地はある。つまり、食べ残しをあさる場合である。残り物はどんどん小さな生物によって処理され最終的には昆虫やその他の無脊椎動物によって見えるような食べ残しはなくなるだろう。

植物の死体(枯れた植物など)も昆虫やその他の無脊椎動物によって食べられ、分解されていく。

しかし、これには例外がある。それが人間なのである。人間は「他の動物に食べるために殺さることがほとんどない」点が例外なのではない。そういう動物は人間以外にも存在する。肉食動物だけでなく草食動物とされる象やキリンも「食べるために殺されることがほとんどない」動物に当てはまるのである。

人間は「死体を他の生物に食べさせない」という点で、人間以外の動物と大きく異なるのである。この結果、人間の死体は他の生物の命の糧とならない。

もし、人間が他の生物異なることが倫理的に問題となるならば、この点こそが最大の問題であろう。人間を除くあらゆる生物は、死後にその体を他の生物の生命の糧として差し出すのに、人間だけが姑息にもそれを拒否しているのである。

高レベルで高尚な倫理を唱えるならば、菜食主義などよりも「人間の死体を他の動物に食べさせる」ように主張するべきではないだろうか。

なお、低レベル倫理では、殺して食おうが、殺して食わずに放置しようが、死体を放置しようが、まったく気にしないのである。殺して食わずに放置しても、以上に述べたようになにか別の動物が食べてくれるから、殺された命は、殺した生物が食べた場合と同様に、無駄にはならないのである。

アフラ・マズダを讃えよう。

食べることと殺すことは別である

殺しても食べないという例はよく知られている。例えば、人間が趣味の狩猟でライオンを殺す場合などである。この場合は、殺すけれども食べない。高尚な倫理を唱えるものは、これはよくない、食べるために殺すことは辛うじて許されることもあるが、食べないのに殺すことは絶対に許されないなどと主張する。

食べるが殺さないという例も実は一般的である。例えば、蚊が人間の血を吸う場合などである。これは寄生虫などに限ると思うかも知れないが、実は脊椎動物でも食べても殺さない例がある。ダルマザメというサメはクジラなどに噛み付いて肉をえぐり取って食べる。ダルマザメに肉をえぐり取られてもクジラにとって致命傷にはならない。クジラはそのまま生き続ける。高尚な倫理でこれを見た場合には、どうなるであろうか。殺していないから倫理的に望ましいと考えるだろうか。それとも殺さなくても食べるという行為自体が罪であると考えるだろうか。

対象が植物の場合には、食べるけれども殺さないというのはより一般的である。人間がバナナなどの果物を食べるとき、その樹木を殺すことはない。小鳥が木の実を食べてもその木は死ななない。それどころか、小鳥は種を拡散する上で役に立つ。しかし、果実の例だけではない。牛や馬が牧草を食べても牧草を殺すことにはならない。なぜならば、牛や馬は牧草を根こそぎ食べたりしないからだ。根が残っていれば、またそこから芽が出て茎が伸びる。牧草は死んでいない。旱魃などで食べ物が極端に少ない場合は、牛でも草の根まで食べることがあるかも知れないがそれは例外である。

しかし、人間が栽培している野菜や穀物は別である。人間は穀物を収穫すると、直接食べるわけでもない茎まで取ってしまうし、根も掘り起こしてその植物全体を殺してしまう。菜食主義者は自分の手を汚していないから、まるでこの虐殺に関わっていないかのような顔をするが、殺す必要のない殺害に間接的に関わっているのである。菜食主義者を含む人間が植物を食べるやり方と、牛や馬が植物を食べるやり方はまるきり違うのである。

低レベル倫理では食べることも殺すことも罪ではない。そもそも、罪とか悪という高尚な概念は低レベル倫理にはないのである。

最初の生命

地球に最初の生命が生まれたのは偶然であると考えられる。偶然生まれた生命は、まもなく偶然死んだだろう。おそらくその生命を生み出したきっかけとなった熱や対流などといったエネルギーの流れが、同じようにその生命を偶然の死に追いやったのだろう。

最初の生命が生まれた時、その周囲には生命の材料となる有機化合物が大量にあったはずである。そして、偶然の作用によって最初の生命は周囲の有機化合物を利用して自分の複製を作ることが出来た。しかし、しばらくすると最初の生命もその複製も偶然の作用によって分解されてただの有機化合物に戻って行ったであろう。

そんなことを何度も繰り返しているうちに、やがて分解されにくい構造が作られ、ある程度安定して複製を作り始めたと考える。その時、周囲には複製の材料が大量にあった。有機化合物の濃いスープの中に最初の生命はいたはずである。そして、その有機化合物の中には、一度生命の形を取りながら、再び分解されて単なる有機化合物に戻ったものもあったはずである。

このような複製の過程を「食」と呼ぶことが正しいかは不明であるが、まあ、どうせ高尚な倫理学者も生物学についてはデタラメな用語を使っているので、気にしないで「食」と呼ぶことにしよう。

つまり、極端な言い方をすれば、最初の生命が食べていたのは「生命になるまえのもの」と「一度生命になって分解されたもの」つまり「死体」であると考えられる。

光合成によって二酸化炭素から有機化合物を作るような極めて複雑な生物が登場するのは、ずっと後のことである。

 

注意書き

このブログは下品で低レベルなものであり、決して高尚なことを期待してはいけない。しかも、その内容がまったく信用できないという点に於いては、高尚な倫理に勝るとも劣らない。つまり、内容もデタラメである。

愛や自己犠牲やよりよく生きるというようなことは一切書かれない代わりに、憎しみや恨みについては書く予定である。また、排泄物、あるいは排便、あるいは大便などについて熱心に書く予定もある。