低レベル倫理

極めて低俗で低レベルの倫理について論考する

三角形をピラミッドと呼ぶことなかれ

三角形とピラミッドは違う形である。

ピラミッド

ピラミッド

ピラミッドは四角錐であり、三次元の形。それに対して三角形は二次元の形である。

さて、世の中には「食物連鎖ピラミッド」などということを言う輩がいるが、そこに図がついている場合、なぜか揃いも揃ってその図は三角形である。いったいどういうことだろうか? 食物連鎖ピラミッドなどということを言っている人たちは三角形と四角錐の違いも分からないということだろうか。

それはともかく、食物連鎖という時には、殺す殺されるの関係ではなく、食べる食べられるの関係を指していると考えられる。殺す殺されるの関係を指したいなら、殺戮連鎖のような言葉がふさわしいであろう。

 

llethics.hatenablog.com食べる食べられるの関係は、三角形で表せるほど単純なものではない。テレビの番組や、ネットの動画では、見栄えのする映像が好まれるため、ライオンがキリンと戦ったり、バッファローと戦ったりする動画が目につくが、餌をとるためにわざわざ強敵と戦うわけがない。通常の狩りでは楽に倒せる相手を狙うのである。

そうすると、大型の動物、例えば象などはライオンや虎に食べられることは滅多にない。もちろん、例外はある。自然界で食物というのは安定して取れるものではないから、飢えれば危険な狩りもするだろう。

では、象はどうやって死ぬのかというと、多くの場合は老衰や病死や事故死や餓死である。もちろんライオンだって同じように、老衰や病死や事故死や餓死で死ぬ。前回の記事で植物は食べられても死なないと書いたが、植物が死ぬのはやはり水不足や日照不足や病気や冬の寒さが主な原因であろう。

そして、「食物連鎖」などという三角形とピラミッドの区別もつかないような雑な関係ではなく、より普遍的な食べる関係は生物の死から始まる。(こういうことは中学校くらいで習ったような気がするが、なにしろ昔の記憶なので当てにはならない。)

大型の動物の死体は、やはり比較的大型の腐肉食の動物に食べられる。食べるために殺された動物の場合も、腐肉食の動物の参加する余地はある。つまり、食べ残しをあさる場合である。残り物はどんどん小さな生物によって処理され最終的には昆虫やその他の無脊椎動物によって見えるような食べ残しはなくなるだろう。

植物の死体(枯れた植物など)も昆虫やその他の無脊椎動物によって食べられ、分解されていく。

しかし、これには例外がある。それが人間なのである。人間は「他の動物に食べるために殺さることがほとんどない」点が例外なのではない。そういう動物は人間以外にも存在する。肉食動物だけでなく草食動物とされる象やキリンも「食べるために殺されることがほとんどない」動物に当てはまるのである。

人間は「死体を他の生物に食べさせない」という点で、人間以外の動物と大きく異なるのである。この結果、人間の死体は他の生物の命の糧とならない。

もし、人間が他の生物異なることが倫理的に問題となるならば、この点こそが最大の問題であろう。人間を除くあらゆる生物は、死後にその体を他の生物の生命の糧として差し出すのに、人間だけが姑息にもそれを拒否しているのである。

高レベルで高尚な倫理を唱えるならば、菜食主義などよりも「人間の死体を他の動物に食べさせる」ように主張するべきではないだろうか。

なお、低レベル倫理では、殺して食おうが、殺して食わずに放置しようが、死体を放置しようが、まったく気にしないのである。殺して食わずに放置しても、以上に述べたようになにか別の動物が食べてくれるから、殺された命は、殺した生物が食べた場合と同様に、無駄にはならないのである。

アフラ・マズダを讃えよう。